5. 預言と終末の自然啓示
預言は、物理的にも、キリストの働きにおいても、非常に特別な位置付けにある賜物の働きである。なぜなら、預言は「未来を持ってくる唯一の賜物」だからである。
(1) 神と時間との関係:
我々の日常生活における情報伝達は、電子や光子、音波などの、物理的な信号のやり取りによって行なわれている。
ところが、光速一定に基づく 相対性理論の制約から、質量を持つあらゆる物質は、光速以上の速度を決して持つことができないことが分かっている。光速に近づくと、質量が無限大に発散してしまうのである。また、光速が変化しない代わりに、時間も長さも短縮して見え(ローレンツ短縮)、光の振動数の方が青方、あるいは、赤方に偏移する。(ただし、時間が逆行したり、物事の時間の順序が入れ替わるようなことは無い。特殊相対性理論の範囲内では一切 矛盾は発生しない。一般相対性理論でも同様である。)
このように、我々は、いかなる物理的手段によっても、(過去は見ることはできても、)未来を垣間見ることさえできない世界にいる。
神様は、時間を超越した存在である。(ヨハ17:5、ヨハ1:1) 神様にとって時間は問題ではなく、神様の口から発せられた言葉は、すでに完了しているのである。約2000年前、御子イエス様が十字架の上で贖いの「完了」を宣言された時、すでに完了(=「完済」(直訳))しているのである。(ヨハ19:30) また、神様の御前では、1000年は1日のようであり、1日は1000年のようである。(Uペテ3:8)
これは時制を問題にしない聖書ヘブライ語の文法に適合している。 聖書のヘブライ語の最大の特徴は、時制が無く、完了形か未完了形かの区別しかない事である。完了形の場合、「信仰」を最も表現しやすい言語となる。(ギリシャ語では、これに時制が加わり、”過去完了形”、”現在完了形”、そして(日本語では表現のしようがないが)”未来完了形”となり、これらは、御子イエス様が地上に来られる前の、旧約時代の預言者たちが用いたニュアンスに適合している。) このように、ヘブライ語聖書は一貫して、神にとっては、すべてはすでに完了している、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を表現している。
「イエスのあかしは預言の霊です。」(黙19:10)
御使い(天使、神に仕える霊)も、サタン・悪霊ども(堕落天使)も、神様が造られた「被造物」であり、人間や宇宙の万物と同様に、すべて時間の流れの制約の中にある。 御使いミカエル(イスラエル国を守る第一の君・天使長)が助けに来るまで、御使いガブリエルはペルシャの君(ペルシャを支配する悪霊)と21日間戦っていた。(ダニ10:13) 終末の大艱難期の前に、ミカエルによって地上に投げ落とされる悪魔は、自分の時が短いことを知り、激しく怒って下った。(黙12:12) また、悪魔は、火と硫黄の池(ゲヘナ)で昼も夜も永遠に苦しめられる。(黙20:10) (* 空間についても、新天新地の新しいエルサレムの城壁を測る尺度は、人と御使いとが同じ尺度となっている。(黙21:17) ・・・ 天の御国は、3次元空間が無限に重なったような四次元空間であるらしい。パウロが行った「第3の天」は、主がおられる天の御国である。)
「御使いたちも、はっきりと見たいと願っていたこと」、「女の長い髪は御使いのためのしるし」、「鴨居に血を塗って、災いの天使を過越させる。」のように、御使いの情報収集能力には制限がある。
一方、イエス様は「神の第2位格」であり、時間の制約から全く自由でおられる。 イエス様が地上におられた時は、人として時間の流れに従われた。しかし、地上において、「預言」によって、彼の「神性」があかしされたのである。 なぜなら、「預言」こそが、人も、御使いも、悪霊も(ある程度”予想”できても、)捉えることができない 未来からの情報だからである。 我々についても、聖霊様が「預言の霊」として働かれるとき、その神性が完全にあかしされる。
(2) 自然啓示による預言の位置付け:
次の3箇所のみことばを比較する。
@ ロマ12−6〜8: 御父から教会に与えられた7つの奉仕の賜物 ・・・ 預言、奉仕、教える事、勧め、分与、指導、慈善
A Tコリ12−7〜11: 聖霊が与える9つの賜物 ・・・ 知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力
(cf. Tコリ12−28: 聖霊が教会に与える任命 ・・・ 使徒、預言者、教師、奇跡を行なう者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者など(順位がある))
B エペ4−11、12: イエス様が与える5職の任命 ・・・ 使徒、預言者、伝道者、牧師、教師
* 御霊の9つの賜物のうち、 知識のことば ・・・ 過去の事柄について、 知恵のことば ・・・ 現在の事柄について、 預言 ・・・ 未来の事柄について、神のことばを現すものであり、これらの3つは”啓示の賜物”のカテゴリーに属する。 cf. 異言(外国語、天的なことば)は未信者のためのしるしであり、異言の解き明かしは人々を救いに導く為の神からのしるしであるので、教会に対する啓示の賜物のカテゴリーには含まれない。
すると、これら3箇所に共通しているのは「預言」のみである。 すなわち、「預言」は、「神の三位一体」の中心点に位置している。
このことを「自然啓示」から見ると、ガウス平面(実数軸と虚数軸で作られる平面)に垂直方向から見た、純虚数を指数とする指数関数を見る見方に相当することがわかる。 一方、時間軸で掃引すると、神様の御計画のイベントが現わされるが、これは「使徒的な見方」である。
預言者の視点は、神の三位一体のポイントから、神様が計画される事象を見ているのであり、(指数関数は無限多価関数であるから、)一部 重なって見えるものもある。そして、それらがいつ起こるのか、という時間的なものについては、それほど重要視する必要はない。神様にとって、それらはすでに完了したことであり、時間は重要ではないからである。(だから、特別なものを除いて、”時間指定の預言”は間違いである可能性が高い)
預言(神に属するもの)がこの世(人に属するもの)にあっていつ起こるのかを明らかにし、時間の流れに整合させるのは、主の油注ぎによるのであり、むしろ使徒的な働きである。この、主の油注ぎによって、「摂理的な奇跡」が起こる。
たとえば、預言者ダニエルによる四頭の獣の預言(ダニエル7章)や、この天地の全体的な歴史の流れについても、2重預言が見られる。 もちろん、歴史が無限に繰り返されるのではなく、御父の権能によって、その初めと終わりが規定されている。(天地創造から千年王国の終わりまで約7000年) (「終末のさばき・御子の再臨の(具体的な)日がいつであるか、御使いも知らない。ただ御父だけが知っておられる。(=変数θが2πになる時)」(マタ24:36))
(参考1): 使徒と預言者の比較 (by. マーク・フィサー師):
1) 使徒: 使徒的油注ぎにより、キリストの力が完全に現される。
預言者: 預言者的油注ぎにより、キリストの啓示が完全に現される。
2) 使徒: 主の戦略の為の縦の服従関係(霊的権威)
預言者: 戦略は関係無い。ただ、神が何をしたいかのみを伝える。
3) 使徒: 日々の管理プロセス(いつしたら良いか、どのように配置したら良いか)を決める。
預言者: その時、その人に、神のことばを解き放つ。
4) 使徒: 時、人々、順(秩序)を見分ける。
預言者: 各人の賜物・召しを見分ける。
5) 使徒: 神を現在の形で建て上げる。(秩序)
預言者: 緊急性のある神のことばを伝える。
6) 使徒: 神の御腕(しるしと不思議)で回復し、主の臨在を確立する。
預言者: 神のみことばによって、教会を自由にし、たましいをいやす。
7) 使徒: 戦略を受け取り、神の方法を示す。(この戦略は、国際的王国を建てる)
預言者: 指導者、リーダーを建て上げる。
〜 使徒・預言者は、人々が次のステップに行けるように、ドアを開閉する。
8) 使徒: 来るべきさばきを伝え、また、どのように防ぐかがわかる。
預言者: さばきに対して何もできない。そのかわり、約束と力を与える。
使徒はキリストの奥義を実行に移す務めを明らかにする。 これは、教会全体が神の知恵をあかしする為である。(エペ3−9〜10)
まず、預言者が祈って、神のもとに行き、同時に、教会にいて、神のことばを持って来て、方向性を出す。
使徒は、預言者のあることばを取って、どのように人々が歩んでいくかを導いていく。(毎日毎日一歩一歩)
cf. 教師: 預言者のあることばを取って、教え、また、真理を良く聞けるようにする。
牧師: 現実的に羊に食物を与える。羊が何を食べるか、一人一人について牧師のみが知っている。(父と子の関係)
伝道者: 出ていって人々を連れてくる。
(注) 伝道者が牧師ならば、人々は大勢教会に来るが、みな出て行く。
預言者が牧師ならば、現実から遠くの所にいて、人々は食物が与えられないから離れ去る。
使徒は働きが大きくたくさんの人々が集まり、良いわざも多い。しかし、わずかな人々を見て外に送り出していくのみ。人々は何かに所属している意識を持てない。
(参考2) ヨハネの黙示録による時間の流れ: (→ 終末の幻の構成 )
(参考3) 終末への備え: (→ 4.(3) 終末の警告と祈り )